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筆者は最近、「忠臣蔵」を読んでおりました。何しろこの書籍、登場人物が100人を優に超え、かつ膨大な文字数の為、読了に数カ月を要しました。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の演目で最も著名なものの一つです。
かなりかいつまんで内容を述べると、播州赤穂藩の浪士たちの「仇討ち」という内容で、赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、幕府旗本である吉良上野介(きらこうずけのすけ)から、江戸城の城内でいわれの無い扱いを受け、武士の矜持・面目を傷付けられたとして(諸説有り)、刃傷沙汰に及びます。天下の江戸幕府、それも江戸城城内にて沙汰を起こしたとして、浅野内匠頭は切腹、浅野家取り潰しを言い渡されます。しかし事の元凶だとされていた吉良上野介に対しては不問となります。この採決に片手落ち(不平等)だとした、赤穂藩家臣の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)らが、吉良を仇とし、長い歳月をかけて決行に移し、吉良邸においてついに仇を討った、というものです。
仇を討ったその足で、切腹した藩主の浅野内匠頭の眠る、泉岳寺へ向かい、主君に報告する所が、この物語のハイライトとされています。幕府側は天下のお膝元で起きたこの仇討ちを、旗本や役人を動員して追わせるが、泉岳寺の山門(寺の門)から入ることができません。ただ、忠臣蔵の書籍全体を通じて描かれていますが、幕府が約260年間続いた事からも察せられる通り、江戸幕府の権力、それはもう実に強大で揺るぎのないものでした。それにもかかわらず、不穏な沙汰を起こした浪士たち取り押さえる事が出来なかったのです。
当時、武士が仏門に入る(出家する)事は、これまでの武士での功績や功名を捨てて、俗世間から脱する事を意味していたのと同じように、寺においては幕府(武士の世界の常識)とは逸脱した世界が有りました。
山門(お寺の正門)にはどんな権力にも影響を受けない、特別な場所であった事が推し量れますね。
さて現代に至って、江戸時代とは社会全体がガラリと変わったものの、寺社や仏閣については、今も特別な空気を醸し出している気がします。筆者は山門を入る時には、俗世間を脱して新たな心持ちで門をくぐります。
「門扉」というものは、お寺であれ、企業、工場、や個人邸宅等であれ、「外の空間」と「内の空間」を区切ってくれるものであります。
だからこそ、恒久的で、かつシンボリックで、その建物としての「顔」である必要がありますね。
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